丁目とは?/ レイク
[ 95] 新宿二丁目 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E4%BA%8C%E4%B8%81%E7%9B%AE
|
この記事の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。 新宿二丁目(しんじゅくにちょうめ)は、東京都新宿区にある町名。同性愛者向けのバーやクラブが集中し、大阪・堂山町と共に世界最大級のゲイ・タウンとして知名度が高い。また、新宿副都心に近いオフィス街でもある。通称、ニチョ、二丁目と呼ばれ、北を靖国通り、南を新宿通りに挟まれた「仲通り」をメインストリートとしている。 新宿の町並みのなかでは歴史的にも古く、江戸時代に宿場(内藤新宿)が置かれたことを起源とし、史跡が存在する。その後、昭和中期まで色街として栄えた。最近は都市開発が進み、古くからある雑居ビルと新しいビルやマンションが混在している。 なお、現在の新宿二丁目の区域は1973年(昭和48年)1月1日に住居表示が施行されてからのものであり、それ以前は現在の新宿三丁目の東端の一部を含む区域であった。以下の記述ではこれを「旧新宿二丁目」とする。 江戸幕府開幕により、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸であり、その間旅人は難儀をしたという。そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現・青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったという。 現在の「新宿」という地名の元となった内藤新宿は、前述の内藤宿を含む辺り(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈)に、浅草阿部川町の名主高松喜兵衛他5人が幕府に願い出て許可され誕生した。内藤新宿は風紀上の理由により1718年(享保3年)に一度取り潰しとなったが、55年後の1772年(明和9年)に、五代目名主高松喜六の請願運動により再興した。 内藤新宿は江戸四宿の一つであり、木賃宿や平旅篭が軒を並べて賑わっていたが、飯盛旅篭(飯盛女と呼ばれる遊女を置く旅篭)も多く、明和9年の記録では、幕府は内藤新宿に150人の飯盛女を置くことと、旅篭屋52軒の営業の許可を出している。 官許の吉原に比べれば格は低く「馬糞臭いところ」と呼ばれていた。 内藤新宿は、明治維新以後も色街としての性格は変わらなかった。1873年(明治6年)に「貸座敷渡世規則」が施行され、遊女屋は娼妓に座敷を貸す形での営業が認められる事となったため、それまでの飯盛旅篭は「貸座敷」と呼ばれるようになり、新宿一丁目辺りから新宿三丁目の追分交差点付近まで、53軒の貸座敷が軒を連ねていた。1921年(大正10年)頃までは「張り見世」といい、娼妓が遊客の「お見立て」を待っていたというが、これは後に警視庁に禁止され、代わりに写真を置くようになった(写真見世)。 大正12年の関東大震災により、吉原や洲崎等の遊郭はほとんど焼けてしまい、被害を受けなかった新宿遊郭は全盛期を迎える。東京の人口が西に拡大したことによる新宿駅近辺の繁栄、折からの近代化によるサラリーマン層の増加とあいまって、新宿遊郭はインテリ層やサラリーマンを対象とした「モダン遊郭」として大いに受けた。この頃「二丁目」といえば新宿遊郭を指したのである。 しかし新宿遊郭は、1945年(昭和20年)戦災により焼失してしまった。終戦後の1946年(昭和21年)、GHQによる公娼廃止指令により公娼制度が廃止された。しかし、いわゆる赤線地帯として生き残り、風俗営業法の許可を受け、特殊飲食店(カフェー)として売春業は存続することとなった(赤線時代の面影を窺わせる建物が、現在もわずかに残っている)。 赤線地帯は道路整備等の関係で「新宿遊郭」時代の範囲より狭くなり、現在の新宿二丁目北西部の約100メートル四方の場所に所在し、約100軒のカフェーが営業していた(風俗営業法の許可を受けていないモグリの店もあり、これは青線と呼ばれた)。客層はサラリーマンや学生等が多かったという。この時代の二丁目は、吉行淳之介や五木寛之の小説などの舞台になっている。1958年(昭和33年)、売春防止法の施行により、「遊郭(赤線)の街」としての新宿二丁目は幕を閉じることとなり、旅館や飲食店、ヌードスタジオ、トルコ風呂(ソープランド。現在も数軒営業中)が点在するさえない地域になった。その後遊郭や旅館の殆どはビジネスホテルにその姿を変えている。 ゲイ・タウンとしての新宿二丁目の歴史は1960年代半ばから始まると言われるが、当時はゲイに対するタブー視も強く、はっきりとした資料は存在しない。しかし、空家となった元赤線の店などを利用してゲイバーが営業を始め、徐々にその数を増やしていったものと思われる。一説によれば、「二丁目最初のゲイバー」は旧赤線地帯ではなく、旧新宿二丁目西端の辺りにあったという。いずれにせよ、昭和40年代半ばには既にゲイバー街が形成されていたといわれる。 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、古い町並みは変貌したが、新宿近辺の他地区のような大規模再開発は行われず、街は夜な夜なゲイで賑わったという。1993年(平成5年)に日本テレビ系列で放映されたドラマ 『同窓会』 や、1999年の同じ日本テレビ系列のドラマ 『ロマンス』 により、「ゲイ・タウン」としての新宿二丁目は全国的に知られるようになった。 (ドラマ中に出てくるゲイバーは、新宿二丁目に実在する店をモデルに作られたという。また『ロマンス』では、実際に新宿二丁目でロケが行われた)。 現在では、ゲイバー、ウリ専やゲイを対象としたショップ等、約300軒以上の店が立ち並んでいる。ゲイバーでは入り口のドアに「会員制」等のプレートを貼り女性客の入店を断るケースが多いが、近年は女性客やノンケ(異性愛の男性)の客も入店可能な「観光バー」と呼ばれる店や、レズビアンを対象とした店も増えている。 昨今ゲイ・タウンとしての新宿二丁目には往時の勢いがなくなってきたと見る向きもある。身体を売らなければならない程の貧困家庭が減少した事や、少子社会になった事、そして1990年代後半からのパソコンや携帯電話などインターネットの普及により、ゲイサイト(ゲイ向けサイト)やゲイ向けの「出会い系サイト」が出現し、真面目に本気の恋愛をしたい「普通の同性愛者」同士が直接出会えるようになった事で、わざわざゲイバーに出向く必要性が薄れてきたこと、また、新橋・渋谷・上野など二丁目以外にもゲイバーが増え、どうしても二丁目に行かなければならない必然性がなくなってきたことも大きい。ゲイの中には二丁目を毛嫌いし二丁目以外に出向く者もいる。 日本のゲイを巡る状況の変化、すなわち自分が同性愛者である事を、以前より比較的オープンに表現できるような社会になりつつあることも関係しているのかもしれない。 新宿歌舞伎町が現状アジア系暴力団の台頭などでカオスの様相を呈しているが、二丁目は元々男性で構成されている為に暴力団の介入が極めて少ない。また、同性愛者も、ゲイ、おかま、ニューハーフ(ウリ専ボーイはゲイとノンケが混在)と実際はジャンルが分かれており、普段はお互いに友好的ではない面があるが、質の悪い客が悪さをするや連絡網で一帯に伝わり協力体制を敷いて皆で駆逐する侠気の伝統があり 『二丁目を守る』 事に於いては皆で団結を惜しまない。(最近はそうでもない)[要出典] そもそもが同性愛者の歓楽街の為にむしろ女性にとっては安全に遊べる場所でもある。しかし心が女性で体が男性の面々からはジェラシーからか毒舌を受けたりもする。また、街を守る意識がどの店にも共通して存在しており、国内外の著名人も多数お忍びで訪れる街であるが、それらの情報は秘匿するマナーも有する街である。 各店舗・テナントは又貸し以上が多く、敷金礼金が不要なケースが多いがその代わり家賃そのものが高いシステムが多い。 もともと接客業の常として「政治と宗教の話はタブー」とされることから、東郷健が東京都知事選挙や衆議院参議院選挙に出馬して話題をまいたものの、全体的には政治との関わりは稀薄だったと言える。しかし、ここ数年で、その評価は別として、政治と深いかかわりをもつ二丁目の関係者が増えてきた。 2007年の東京都知事選挙期間中の3月31日、石原慎太郎知事が「二丁目を潰す」「ナマコとオカマは嫌い」と発言するなど、二丁目に対する敵意をあらわにしたとされたことに対し、危機感を覚えた対立候補の浅野史郎と当事者政治家などが、二丁目で街頭演説会を開いて、500人(主催者発表)を集め、メディアなどに大きく取り上げられた。しかし一方で、そもそも上記石原発言自体根拠のない「デマ」の可能性があり、浅野や彼を支持するグループがその憶測を元に一部当事者の間に存在する反石原感情を政治的に利用したという批判もある。 同年開催の第6回東京プライド・パレードには、厚生労働省・東京都の後援がつき、渋谷区長・新宿区長から祝福のメッセージが寄せられ、「ヴィジット・ジャパン・キャンペーン」のロゴを使用することが、承認された。このことから最初から都を始めとする行政はLGBTに好意的、ないし、少なくとも敵意は抱いていないと考えられ、都知事選挙では候補者同士の批判合戦に二丁目が巻き込まれただけという格好となった。 同年7月の参議院選挙において、元・大阪府議の尾辻かな子が、比例区に民主党公認で立候補し、事実上選挙運動の中心となる東京事務所を二丁目に置き、政治活動を行い二丁目及び同性愛者の「可視化」に貢献したが、選挙では落選した。 内藤新宿の遊女の投げ込み寺であった。境内にある「子供合埋碑」(遊女の共葬墓地)、心中した遊女と客や宿場内で不慮の死を遂げた者を供養する「旭地蔵」にその当時の面影を窺う事ができる。 信州高遠藩内藤家ゆかりの寺。境内には閻魔大王像や、「しょうづかのばあさん」と呼ばれ妓楼の商売神として信仰された奪衣婆像、「江戸六地蔵」の3番目として作られた銅造地蔵菩薩坐像がある。 新宿遊郭が移転した当時、大変火事が多かったため祀るようになったといわれる。2005年(平成17年)3月に取り壊され、跡地はコインパーキングになっている。 市谷加賀町|市谷甲良町|市谷砂土原町|市谷左内町|市谷台町|市谷鷹匠町|市谷田町|市谷長延寺町|市谷仲之町|市谷八幡町|市谷船河原町|市谷本村町|市谷薬王寺町|市谷柳町|片町|住吉町|富久町|本塩町 この「新宿二丁目」は、日本の地理に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:日本の地理/P:日本の都道府県)。 |
レイクのサイトです。