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関東とは?/ レイク

[ 52] 関東 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1

関東(かんとう)とは、ある特定の関から東の地方を指す地域呼称である。中国および日本において古くから使用されている語であるが、その意味範囲は、地域・時代によって大きく異なる。対義語は関西(かんさい)。
中国では、元来、函谷関から東を関東、西を関西または関中と呼んだ。古い時代の中国は、長安や咸陽に首都を置いたため、首都を守る函谷関を基準として関東・関中・関西という地域呼称が興ったのである。
時代が下り北京が首都となると、北京の東を防御する山海関の東方、すなわち現代の中国東北部に当たる地域を関東と呼ぶようになった。また、清朝末期に日本が遼東半島周辺に設定した租借地は関東州と名付けられたが、これも山海関の東方に由来している。
日本では、律令制が構築された飛鳥時代後期または奈良時代に関東という地域概念が発生した。この時期、畿内を防御するために東海道鈴鹿関、東山道不破関、北陸道愛発関の三関が置かれたが、これら三関から東を関東と呼んだのである。この当時、関東は東国とほぼ同義であった。
三関以東を指す関東と呼ぶ慣習は、奈良時代から平安時代にかけて長らく続き、平安中期に愛発関に代わって逢坂関が三関に加えられたが、関東の指し示す地域範囲に大きな異動はなかった。
こうした状況に変化が生じたのは、平安末期に源頼朝が朝廷から自立した政権を樹立してからである。頼朝は自らの政権を「畿内近国・西国方」に相対する「関東方」と自称し、ほどなくして「関東」の語は頼朝政権=鎌倉幕府の公式な呼称として定着した。鎌倉幕府成立後の「関東」が示す地域範囲は、律令以来の三関以東ではなく、遠江国(一説には三河国)・信濃国・越後国以東となったが、これはすなわち、鎌倉幕府が朝廷から公認された直接統治範囲に他ならない(ただし、律令法において防人を輩出する義務を負った「東国」諸国とも重なっている(異説でのみ含まれる三河国を除く))。「関東」は、鎌倉幕府そのもの及び鎌倉幕府が直接に統治権を及ぼす地域の2つを表す語へと変化していったのである。
14世紀中期に室町幕府が成立し、鎌倉に鎌倉公方(鎌倉府)が置かれると、鎌倉公方の管轄する諸国、すなわち奈良時代以来、坂東と呼ばれてきた相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国に、伊豆国・甲斐国を加えた10か国が「関東」と認識されるようになった。14世紀末に陸奥国・出羽国が鎌倉公方の管轄下となった後は、奥羽も「関東」とされる場合もあった。
徳川家康による江戸幕府の創始によって、三度「関東」概念に変化が生じることとなった。幕府が置かれた江戸を防御する箱根関・小仏関・碓氷関より東の板東8か国が、「関東」と呼ばれるようになった。幕府の公式見解によれば奥羽も「関東」に含むとしていたが、「関八州」と呼ばれたように一般的には旧来の板東8か国のみが「関東」と認識されていた。
江戸時代の「関東」の概念はそのまま明治以降も継承され、現代の関東地方(茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)へと至っている。
しかし、20世紀後期になると、小仏関以西に当たる山梨県(甲斐国)が「関東」に含まれたり、さらには碓氷関以西に当たる長野県(信濃国)や、日本海側の新潟県(越後国)が「関東」に含まれる場合も散見され始めている。このため、「関東」が指す地域範囲は、鎌倉時代・室町時代・江戸時代に続いて、四度流動的な様相を呈しつつある。

 

[ 53] 関東地方 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%9C%B0%E6%96%B9

この項目では日本の地方区分としての「関東」について記述しています。日本や中国における「関東」の概念については関東をご覧ください。
関東地方(かんとうちほう)とは、本州の東部に位置する日本の地方である。茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県から構成される。山梨県を含める場合も多い(各省庁等。代表例として首都圏整備法)。
日本最大の平野「関東平野」が中央に広がり、北西側は山岳地帯、東南側は太平洋に面する。関東の東部には房総半島(千葉県)、南部には三浦半島(神奈川県)が太平洋に突き出しており、房総半島と三浦半島の間に東京湾、三浦半島と真鶴半島の間に相模湾を形成する。また、地理的な一体性は薄いが伊豆諸島や小笠原諸島も東京都の管轄下にあるため、行政的には関東地方である。
上記市町村内に「最○端」が存在する。但し、伊豆諸島や小笠原諸島を加えると、最東端は東京都小笠原村の南鳥島、最西・最南端は同村の沖ノ鳥島。南鳥島は日本の最東端、沖ノ鳥島(無人島)は日本の最南端であるため、関東地方は日本の最東・最南端とも言える。
また、常緑広葉樹林の上にはブナやシラカバ、ミズナラなどの落葉広葉樹林が広がる。しかし、千葉県は標高が低いため成立しない。茨城県には筑波山山頂周辺と、北部の山の一部にしか広がっていない。
また、落葉広葉樹林の上にはシラビソやダケカンバなどの針葉樹林が落葉広葉樹林の下限から約1100m高い標高から広がるが、千葉県はもちろん、茨城県や神奈川県にも標高が低いため成立しない。東京都には雲取山周辺の僅かな面積にしか広がっていない。
北端には帝釈山脈、高原山、那須連山、八溝山、三国山脈、西端には関東山地(奥秩父山塊もこの一部)などの山地がそびえて、各隣接地方へ繋がる。日本最大の平野である関東平野が広がり、塩那丘陵をはさんでその直ぐ北には那須岳山麓に広がる日本最大級の扇状地那須野が原、東側には上総台地を挟んで千葉県の海岸沿いには九十九里平野が広がる。千葉県南部は房総丘陵で、茨城県の霞ヶ浦周辺は常総台地や常陸台地になっている。群馬県や埼玉県秩父地方などは盆地になっている。荒川、江戸川などの各河川は東京湾へ注ぎ、鬼怒川、利根川(「坂東太郎」とも呼ばれた)は犬吠埼で太平洋へ注ぐ。
東京湾は、房総半島と三浦半島に囲まれ、千葉県の西側、東京都の一部と神奈川県の南側に面して、浦賀水道から太平洋に接する。沿岸部は工業地帯になっている。神奈川県の南側は相模湾・相模灘に、茨城県の沿岸は鹿島灘に面する。又、相模湾には、二回の関東地震の震源地となった相模トラフが通っている為に、各地で地震対策にも力が入れられている。
「首都圏」といわれる地方でありながら、自然環境に恵まれているといえる。自然公園面積の割合は、東京都が全国第二位、埼玉県が第四位、神奈川県が第十位である。
太平洋沿岸に位置するため、夏に雨が多く、冬に乾燥する太平洋側気候が見られる。沖合いは黒潮の通路となっている。但し、群馬県や埼玉県などの内陸部では、寒暖差の大きい内陸性気候が見られる。
夏はオホーツク海気団よりやませが吹き込み、気温が下がる時がある。特に栃木県北部、群馬県、埼玉県北部には、夕立による雷の発生が多い。
冬は、南岸低気圧が通過する時に、雨や雪が降り易い。東京や水戸など沿岸平野部の降雪は、ドカ雪(湿り雪)か粉雪かの二つのパターンが多い。特徴として、南岸低気圧の時は湿り雪で、冬型の時は粉雪となる日が多い。但し、冬型で大雪となる地域は那須岳と三国山脈に近い北側の山間部に多く、南側には無い。例外的に寒冷低気圧の降雪もある。
古代の関東地方の地形であるが、現在の茨城県中南部、千葉県の下総台地以外の地域、東京都の平地部、埼玉県の東南部は海であった。群馬県の岩宿遺跡からは、関東ローム層から旧石器時代の物とされるナイフ形石器が発見されている。縄文時代の遺跡が多数存在し、貝塚はよく知られる。
五畿七道の交通網について、関東には畿内から陸奥国に伸びる東山道と、同じく畿内から伸びて三浦半島から海路房総半島に出て香取・鹿島に向かう東海道が整備されたと言われる。
古代よりヤマト王権と関東の間に交流があったと言われる。その根拠の一つは、関東にも前方後円墳が存在すること。そして何よりも7世紀末、下野国国造である下毛野氏一族の下毛野朝臣古麻呂が藤原不比等たちとともに選定した律令制(大宝律令)が導入され、大和朝廷の誕生に関東の勢力も大きく関与したことである。
古代は朝廷の支配に属さない「まつろわぬ(逆らう)人」が住む未開地とされ、東日本(関東から東北)や北海道までの地方に住む住民は「蝦夷」(えみし)と呼ばれたという。しかし、以上の考え方は神代の後に起こった勢力による関東の定義であり、それ以前から神代文字に象徴される文化国家が関東の地にも存在し、衰退あるいは後発勢力に融合し神話化したとする説もある。
関東南部の旧入間川(荒川)〜旧荒川(元荒川)〜旧利根川(古利根川)〜旧渡良瀬川(江戸川)〜毛野川(鬼怒川)に至る地域は、古代は低湿地帯であった。従って、概して当時の関東はこの低湿地帯の北部にあたる毛野川流域地域(毛野国)とその南部地域(无射志国)に分かれていたと考えられる。
毛野国は、筑紫や吉備に比肩する大国であったといわれる。奈良時代、下毛野氏の氏寺であった下野薬師寺は、奈良の東大寺、大宰府の観世音寺と並ぶ三戒壇に指定されており、この点からも下毛野氏が大和朝廷との関係において高い地位にあったことが伺える。
一方、上総国・下総国・安房国の房総半島は総(ふさ)と呼ばれ、『古語拾遺』によると、四国から渡来した忌部氏が開拓したという。これらの諸国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。その傍証として、天武10年(681年)に詔を受けて史書編纂に従事した群臣のうち、王族を除くトップは上毛野君三千であった。
又、『梁書』などの「扶桑國」「女國」、『旧唐書』に登場する「毛人國」、唐代の漢詩に見える「扶桑東更東」といった地域を関東に比定する説がある。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文中の「大王」も、畿内ではなく関東にいた首長を指すとする立場(古田武彦、井上秀雄、鶴岡静夫ら)もある。太田天神山古墳のような巨大古墳や、金鈴塚古墳のような豪華な副葬品を持つ古墳が築造された。このように、関東地方は、古墳時代には、畿内に比肩しうる王権を確立していたとも考えられている。
律令制の五畿七道において、「関東」は、京の防備のために設けられた東海道の伊勢国の鈴鹿関(鈴鹿峠)、東山道の美濃国の不破関(関ヶ原)、北陸道の越前国の愛発関(愛発山、あらちやま)の三関から東の全域を指した。その中でもとりわけ、「東海道の足柄関(箱根峠)から東の国」と「東山道の碓氷関(碓氷峠)から東の国」が、関東地方に当たる。陸奥国(東北地方太平洋側)との境には、白河関と勿来関が設置された。
関東地方には、西から順に相模国、武蔵国、下総国、上総国、安房国、常陸国、上野国、下野国の8つの令制国が設置され、分割統治された。古くは坂東(ばんどう)といわれた。坂東は信濃国と上野国の界にあたる碓日嶺と、駿河国と相模国の界にあたる足柄坂の東の意味である。
大陸に目を向けると、7世紀の東アジアでは唐と新羅が権勢を揮い、663年には百済・倭国(日本)連合軍を白村江の戦いにて破り、高句麗も668年に同様に滅された。又、10世紀にはその新羅も、後高句麗により滅ぼされた。こうした大陸と朝鮮半島の騒乱期に前後して、朝鮮半島方面から多くの人間が渡来人として日本各地に流れてきており、ヤマト王権は彼らに関東の未開発地を与えて住まわせ、関連する地域の名が今でも残る(例:武蔵国高麗郡・新羅郡→新座郡)。
律令時代の関東は配流の地でもあり、斑鳩や奈良に本拠地を置く畿内政権からは、「都からは遠く、自力で帰るのが難しい地方」と見られており、特に安房国と常陸国は、「遠流」の地ともいわれ、北九州へ向かう防人も関東から多く徴用され、それを象徴する語に「鹿島立ち」があるとされる。
一方、律令制定以前、藤原不比等とともに大宝律令の制定に携わった下野国の豪族下毛野古麻呂は、第十代天皇である崇神天皇の第一皇子・豊城入彦命の末裔とされ、古代ヤマト王権に並ぶ毛野国を立国し筑紫や吉備・出雲に比肩するほどに栄えたとされ、奈良時代には氏寺の下野薬師寺が東大寺(大和国)・観世音寺(筑前国)と並び三戒壇に指定された歴史を鑑みるに、関東には都の影響を受けつつ、成熟した独自文化が養生されていったことが推察される。
平安時代には、11世紀頃に成立した『更級日記』などに、武蔵野の情景が描かれている。10世紀には親王任国が半制度化し、上野国、常陸国、下総国には桓武系平氏を中心に平家武士が増加、その一人である平将門は自ら天皇と称し、関東の独立を目指して蜂起すると、下野国押領使で藤原北家魚名流・藤原秀郷は朝廷の意向をもってこれを討伐した。概ね北関東以北は藤原北家や清和源氏(河内源氏)を出自とする領主、南関東は平氏を出自とする領主が支配した。この頃、関東は「あづま」(畿内から見て東なので「東」の字が充てられる)と呼ばれ、関東の武将たちは、その勇猛さから「あづまえびす」(東夷)とやや侮蔑的に呼ばれた。将門の独立志向が、その後の関東の武士政権への道を開いた事を、網野善彦は指摘している。下毛野公時は足柄山の金太郎のモデルとなったと言われる。
源頼朝が鎌倉幕府を樹立する頃には、関東各地で開拓が進み、中小武士団が割拠した。北関東は藤原北家流諸氏(那須諸氏、宇都宮氏、小田氏、小山氏、結城氏等)や清和源氏流諸氏(足利氏、新田氏、佐竹氏)、南関東は桓武平氏流諸氏(鎌倉党、三浦党、千葉党など)や武蔵七党が領有した。
南北朝時代には、足利幕府(源氏政権)の出仕機関である鎌倉府が同じく鎌倉に置かれ、鎌倉公方(源氏)を関東管領(主に藤原勧修寺家流)が補佐、さらに関東八屋形(藤原北家流6氏・源氏流1氏・平氏流1氏の計8氏)が各領土内での実権を有した。事実上、東国武家政権の伝統を引き、東日本を広く管轄した。
室町時代には、鎌倉公方は室町幕府(源氏)と対立し、これに、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった。その結果、大きな戦いだけでも、
と相次ぎ、小規模なものも含めれば、関東地方は連年続く事になった戦争によって荒廃した。一連の戦いによって関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の各氏は勢力が衰え、戦国時代にはこれに乗じた小田原北条氏(後北条氏=伊勢平氏を称す)が台頭し、関東各地を次々と支配下に置いた。対抗勢力として上杉氏が期待されたが影響力は発揮されなかった。最終的に朝廷の意向を受けた豊臣秀吉が鎮圧に乗り出すが、それまでは里見氏、佐竹氏、宇都宮氏がこれに抗し領土を守った。しかしその後、新たに起こった中央政権によって関東の領有権を没収されていった。
江戸時代には、関東地方は関八州と呼ばれ、武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八国を指した。関八州を得た徳川家康は駿府(現静岡市駿河区、葵区の一部、市制施行時の静岡市)から江戸(現東京都区部の一部、のちに東京市となる東京府区部にほぼ相当)に本拠地を移し、江戸湾に注ぐ利根川・渡良瀬川水系を毛野川水系に纏め、現在の利根川水系の原型を形造る利根川東遷事業を進めた。この事業によって江戸付近の雨期の河川氾濫を治め、旧利根川・旧渡良瀬川の下流〜河口地帯を干拓して江戸の町の基盤を作った。こうして家康は江戸幕府を樹立し、その後は江戸幕府によって隅田川や江戸川、玉川上水などの水路整備事業が行われ、江戸は水路を周囲に巡らす世界屈指の大都市となった。又、田沼意次により、印旛沼の干拓事業なども行われた。
江戸時代の関東地方は、正に徳川氏の自領であった。徳川御三家の一つ・水戸徳川家が治める水戸藩、徳川氏の側近が治める川越藩など、関東各地には徳川氏の血縁者や譜代大名・旗本が治める藩(地方王国)が樹立され、日光神領などの天領を含め、徳川家の支配地となった。また、日光(日光東照宮)や鹿嶋(鹿島神宮)や成田(成田山新勝寺)といった門前町も盛えた。
幕末には、マシュー・ペリーが率いるアメリカ艦隊が江戸湾に入港したり、水戸天狗党の挙兵、上野戦争や宇都宮攻防戦といった北関東の戦役など、政局や戊辰戦争の舞台となった。
江戸幕府が倒されて明治政府が誕生すると、天皇を初めとする皇族が京都御所から江戸城に移り、江戸は東亰(とうけい、後に東京(とうきょう))と改名されて、東京は明治政府の本拠地となった。これ以後、東京は実質上の首都、政治・経済・文化の中心となった。そして、関東は、畿内以外で初めて、中央集権型政権の本拠地が置かれる地方となった。
東京には、軍事と経済以外の国家の中枢機関が置かれた。そして、東京と横浜は、文明開化の中心地となり、近代化を主導した。この文明開化の時代には、官民を挙げて鉄道が建設されて、速達力が高上する時代が到来した。
第二次世界大戦の戦乱を経て、高度経済成長期が到来すると、東京湾岸には京浜工業地帯が造成され、京浜工業地帯の中小工場には、東日本各地から「金の卵」と呼ばれる労働者が集まった。そして、第二次産業から第三次産業までの大手企業の本社が、次々と東京に移転し、経済面で東京への一極集中が進行した。しかし、東京への過剰な一極集中は、政治・行政・経済・文化など、多方面の問題にもなっている。
北関東(きたかんとう):利根川以北の茨城県+栃木県+群馬県の3県を指す。埼玉県を含めて4県とする場合もある。
常総(じょうそう):茨城県+千葉県。狭義では、利根川に近い茨城県南部(旧新治県)+千葉県北部の一帯を指す。関東の東半分に当たるので、東関東(ひがしかんとう)ともいう。
多摩地方(たま):東京都から区部と島嶼部を除いた地域。但し、明治時代東多摩郡に属していた中野区と杉並区を含む場合もある。
武蔵(むさし):昔は、埼玉県+東京都+神奈川県の一部だったが、現在は埼玉県秩父地方・飯能などの西部+東京都西部。[要出典]奥武蔵は、秩父地方の奥の旧大滝村などが合併した秩父市辺りのこと 飯能も加わることもある
南関東:桓武天皇の子孫が多く領地として有した歴史から、桓武平氏諸氏の影響力が強い地域。平氏の支配下の地に河内源氏が鎌倉の領有権を得て以来、鎌倉幕府(源氏)、室町幕府時代の鎌倉府(源氏)、江戸幕府(徳川氏)、明治政府といった政権の本拠地が置かれて来た。第二次大戦後には東京60km圏内はベッドタウン化し、「○○都民」(例:千葉都民、埼玉都民)と呼ばれる居住地の地方政治に対し積極的なかかわりを持とうとはしない住民が増加している。
北関東:古代には毛野国に代表される地方王国が存在したが、次第に清和源氏諸氏や藤原北家諸氏が領主として土着した。室町幕府の足利尊氏は清和源氏で下野国御家人(足利市)の出身、江戸幕府の徳川家康は清和源氏・新田氏流の末裔という風に、政権を樹立した武将には北関東(毛野国)に縁を持つ者が多い。なお、源頼朝も徳川家康も、宇都宮大明神(宇都宮二荒山神社)を参詣し寄進を行っている。第二次大戦後は、高崎に象徴されるように「自民党王国」として有名であり、衆議院議長や大臣級の政治家を多く輩出している。
南関東:政権の所在地(鎌倉、江戸〈明治以後の東京〉)が大消費地として経済の中心地になり、それを中心に経済圏が形成されている。本社の東京一極集中が凄まじく、東京が「プライメイトシティ」と化している。国道16号圏内の私鉄沿線は、鉄道駅周辺に店鋪が集まっており、自家用車の所有率が低い。
北関東:中心市街地における購買力が顕著であり、宇都宮での年間商品販売額は、栃木県全県の約半数に迫る勢いである。モータリゼーションが発達しており、郊外型ロードサイドショップも多い。
南関東:東海道の東端。幹線ルートの東西軸と南北軸が入れ替わる地域。大型幹線には東海道新幹線や東名高速道路など。連絡線は国道16号など。
北関東:東山道の東端。幹線ルートは南北軸。大型幹線には東北新幹線や東北自動車道など。連絡線は国道50号など。
常総ともいう。日本屈指の農業地帯。利根川近辺には水郷筑波国定公園が位置しており、水郷や筑波山などの観光地を持つ。
地域間移動は線的で、東関東自動車道、国道6号、国道51号といった南北の幹線に沿った地域同士の交流関係が深い。
西に関東山地が峙える。地域間移動は流動的で、川(利根川、多摩川)を越えた地域同士の交流も目立つ。両毛地方や国道16号沿線にはロードサイドショップが多く、埼玉県から多摩地方への移動は、道路では国道16号経由、鉄路では東京経由が主流である。
北西部(毛武)に当たる埼玉県・栃木県・群馬県では、農業が盛んである。しかし、南西部(武相)に当たる東京都と神奈川県では、農業の占める割合が極めて低く、第三次産業の占める割合が極めて高い。
これも、交易によって勢力を維持した平氏流諸氏の支配地域と、農業によって勢力を維持した源氏流諸氏の支配地域の特徴がよく表れている現象の一つと言えよう。
中央省庁や企業・団体のエリア区分による「関東」の範囲は、必ずしも「箱根関・小仏関・碓氷関から東」とは定義されておらず、統一されていない。
地域別特徴を見ると、本社の大半は、東京都区部に集中している。一方で、東京都区部を除く地域には、特定企業の工場が集まる「企業城下町」や、営業所や小売業が多く立地する都市が多く見られる。
東部の茨城県と千葉県は、全国でも上位の農業粗生産額を誇り、北西部の群馬県と埼玉県と栃木県でも農業生産が多いが、南西部の東京都と神奈川県では衰えている。特に千葉県は、農業生産額が北海道に次いで第二位であり、野菜の生産額は日本第一位を誇る。
大消費地である東京を控え、茨城県や栃木県、千葉県を中心に養豚、養鶏、酪農が多い。生乳生産量では、北海道に続いて、栃木県が第二位、千葉県が第三位に位置する。
埼玉県の秩父市、栃木県佐野市(旧葛生町)付近では、セメント原料の石灰岩、ドロマイトの採掘が行われている。
千葉県では天然ガスの採掘が行われている。大半は東京向けに供給される。また、副産物であるかん水からはヨードが精製されており、医薬品向けに日本から輸出される数少ない鉱物資源となっている。
南部:東京湾沿岸に、大規模な臨海型工場地帯が広がり、それぞれ京浜工業地帯(東京-神奈川)や京葉工業地域(東京-千葉)と称される。尚、京葉工業地域も、京浜工業地帯に含める事がある。
東部:茨城県の北部(日立市やひたちなか市)や千葉県の東葛地域(我孫子、柏、津田沼など)には、日立製作所の関連工場が多い。また、茨城県の鹿行地域には鹿島臨海工業地帯が形成されている。
関東地方における主要工業都市は、各市町村別の年間製造品出荷額(2003年)の多い順に以下のようになっている。
多くの大手ゼネコンの本社が、東京都区部に集中している。東京都区部では、大規模なオフィスビルやマンション・道路・鉄道(地下鉄)などの建設が行なわれている。
東京では、新宿・池袋・渋谷・銀座・日本橋・上野を中心に百貨店や専門店、高級ブランド店、大規模商業施設、飲食店などがあり、集積度は高い。
国道16号圏内の鉄道沿線、特に東京と横浜には、鉄道駅の利用者の方が圧倒的に多いために、駅周辺を地盤とする「カメラ系家電量販店」やレールサイドショップが多い。
一方で、国道16号の圏外になると、バイパスや郊外を地盤とする「北関東系家電量販店」や郊外型ショッピングセンターが多い。
関東地方の主な商業集積地は、各市町村における年間商品販売額(2001年、含卸売業)の多い順に以下のようになっている。
東京には中央銀行である日本銀行や多くの都市銀行が本店を置いているほか、各地の地方銀行や主要な海外金融機関も情報収集を兼ねて東京支店を置いている。また、東京証券取引所、各種商品市場も置かれている。
各放送局のキー局(親局)が東京都区内に所在する。東京には各地方局の支社もあり、東京に本社のある企業や出演者などへの営業活動や、一部の番組製作も行われている。
関東地方の幹線交通網は、東海道ルート、甲州街道ルート、中山道・三国街道ルート、日光街道・奥州街道ルート、水戸街道ルート、常総ルート、房総半島ルートに大きく分けられる。
連絡線としては、例幣使街道ルートなどがある。兵士街道古道鎌倉街道・大山街道や、その他関東各地域中核都市から周辺部に伸びる路線群が整備されている。
関東地方の鉄道網は東京から放射状に伸びており、路線相互の接続駅間を結ぶ鉄道路線が高度に整備され、世界最大の輸送力を誇っている。
JR東海道本線、JR横須賀線、JR湘南新宿ライン、JR京浜東北線、JR横浜線、京浜急行本線、東急東横線、横浜高速鉄道みなとみらい線、相模鉄道本線、横浜市営地下鉄ブルーライン・横浜市営地下鉄グリーンライン
江戸時代に五街道が整備されて以後、日本橋を始点にして幹線国道が放射状に整備され、連絡線国道が環状(弧状)に整備されている。高速道路は、首都高都心環状線を中心に、各方面へ放射状に延びている。
東京湾岸の横浜港、東京港、千葉港を中心に、世界各地を結ぶ貨物船が東京湾に出入りしている。又、日本の大手海運会社である日本郵船や川崎汽船が東京に本社を置いている。
関東地方の中心都市となっている東京から、主な都市や峠への「Nkm圏」を以下に掲載する。km数は国道の距離標を基準にして測る。
放送局のキー局が東京23区に集中しているため、多くの芸能事務所や番組制作会社が東京23区に拠点を置いている。
関東一都六県(関東広域圏)を放送対象地域とする広域放送と、各都県を放送対象地域とする県域放送(ローカル局)がある。
広域放送は五局存在するが、いずれも東京都区部に本社を置くキー局であり、関東平野のほぼ全域で東京タワーからの電波が受信可能である。又、山間部や伊豆諸島・小笠原諸島(小笠原諸島はテレビのみ)でも、中継施設を通じて受信可能となっている。県域放送は、茨城県を除く全ての都県に一局ずつ存在する。
東関東方言:茨城県、栃木県のほぼ全域と埼玉県、千葉県の一部で用いられている方言。福島県中通り・浜通りの方言との類似性があり、方言圏の南端は千葉県銚子市付近。
西関東方言:東京都特別区・多摩、埼玉県、群馬県、神奈川県のほぼ全域と千葉県の大半、栃木県両毛地域、山梨県郡内地方の一部で主に用いられている方言である。いわゆる東京弁、下町方言も西関東方言の一種とされるが他地方方言の影響も見られる。
現在の東京周辺では1.東京通勤が多い、2.他地方の出身者(移住)が多い、3.テレビ・ラジオの影響などで、日本語共通語(標準語)かそれに近い関東色のある新方言(いわゆる首都圏方言)が多用され、土着の方言を話す人口・機会が比較的少なくなっている。特に東京都心部で暮らす地方出身者は、いわゆる標準語を意識的に用いる事が多いが、時間の経過とともに、周囲の首都圏方言に同化していく傾向がある。
又、伊豆諸島の八丈島や青ヶ島で話される八丈方言は、古代東日本方言の特徴を色濃く残す方言であり、他の方言との差異が大きい。
小笠原諸島は、元々欧米人とハワイ先住民が移民・開拓した土地であるため、欧米系住民(在来島民)が話していた英語の語彙と日本語八丈方言、日本語標準語が混合された、独特の日本語新方言「小笠原方言」と呼べるものが存在するが、現在ではテレビの影響などで、急速に日本語標準語(それに近いものを含む)化が進んでいる。

 

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