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中日とは?/ セントラルファイナンス

[ 21] 中日ドラゴンズ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%97%A5%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%BA

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1936年1月、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。明大の中根之、白系アメリカ人で捕手のハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。1934年の大リーガー選抜来日時に、新愛知新聞社の田中斎が読売の正力松太郎より名古屋でのプロ野球球団結成の要請を受けたのが球団誕生の契機。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。最初、正力とは別個の独自リーグ「大日本野球連盟」を組織し、各地に同様の球団を結成(4球団)、配下には3Aに相当する下部組織を作る等、当時としては先進的な構想を抱いていたものの、計画は進まず、既存の2球団をもって日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)に加盟して存続することとなる。当初の会社名は「株式会社大日本野球連盟名古屋協会・名古屋軍」「株式会社大日本野球連盟東京協会・大東京軍」であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。
1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがあとを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。
慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人・阪神に及ばず、優勝は遠かった。
1942年、戦時下の新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞社として新設。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資し1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を理研工業の傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団に例外なく多くが兵役に駆られ、「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。
1947年のニックネーム導入にあたり、当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳「ドラゴン」から中部日本ドラゴンズに改称。服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐのチームを支えた。しかし、オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も巨人に復帰し、またしてもチーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。
1949年、天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。
1951年2月6日より名古屋鉄道が経営参加し名古屋ドラゴンズと改名。8月19日に中日球場が試合中の火災により全焼。(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行う)オフに鉄筋コンクリートで再建。
1954年天知監督の下、西沢、杉山悟、杉下茂、石川克彦らの活躍で初優勝。日本シリーズでも西鉄ライオンズを4勝3敗で下し、初の日本一。天知監督を親分に見立て「天知一家」と俗称された。
1961年、濃人渉監督が就任。ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍により巨人に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。
1981年、近藤貞雄監督が就任。1982年には3度目のリーグ優勝。近藤は星野・木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙、中尾孝義、上川誠二らの若手を登用。他の野手では大島康徳、田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤、まだ2位だったのに優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムの大洋最終戦、中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山では小松辰雄の完封勝利によって見事優勝。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野・木俣が引退
1984年、山内一弘監督が就任。初年度は2位となったが、その後は1985年・1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木ヘッドコーチが監督を代行した。 シーズンオフ、星野監督が就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。このトレードに際しては、牛島が当初拒否し、星野自ら説得にあたった。享栄高校から、近藤真一がドラフト1位で入団する。
1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。ルーキー近藤が、8月9日の巨人戦で、プロ初登板初先発ノーヒットノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、前年の不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。
1993年は、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。両者とも17勝で最多勝に輝き、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が巨人にFA移籍。
1994年はシーズン中盤まで首位巨人に食らいついたものの、8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。しかし9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の巨人に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、巨人に、落合、松井の本塁打に加えて当時の3本柱・槙原、斎藤、桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率と、投打のタイトルを総なめした。
1995年、前年度の優勝を最後まで争っての2位という成績を評価され高木監督が続投。しかし不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。
1996年、星野監督が復帰。ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかり不振に終わる。この年は例の長嶋巨人「メークドラマ」の年であったが、巨人があと1勝で優勝という時点で(巨人の残り試合はすべて中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。そして10月6日、この試合を含む残り3試合の巨人戦に全勝すればプレーオフというところまでこぎつけるが、3試合目で敗れ去り優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜(恐竜)打線”の愛称も一層の定着を見せた。
1997年、ナゴヤドームがオープン。本拠地を移転し新時代の一歩を踏み出す。しかし狭いナゴヤ球場から一転、広いナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、5年ぶりの最下位に終わる。しかしこの年は宣銅烈が39セーブポイントを挙げ、山本昌が3年振り3度目の最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフにはドームに対応した野球を目指して抜本的な改革が行なわれた。守備力と機動力を確保するためパウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘・大豊を放出、交換で関川浩一・久慈照嘉が入団。また韓国ヘテから李鍾範を獲得。更に明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団。以降、中日は打のチームから投手と守備力を活かしたチームへと生まれ変わることになる。
1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。前半戦までは5割付近をさまよっていたが、例のごとく後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の横浜戦7連敗が響き、38年ぶりの優勝を許した。投手コーチに元巨人の宮田征典を招聘しテコ入れ、その甲斐あって野口茂樹が最優秀防御率、川上憲伸が新人王を獲得した。オフには福留孝介がドラフト1位、岩瀬仁紀が2位で入団。
1999年は珍しく開幕前に本命に挙げられ、期待通りに開幕からいきなり11連勝。昨年度の投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、サムソン・リー、落合英二らとともに不動のセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝して一気にゴールテープを切り、見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、無料開放されたナゴヤドームも超満員となり、11年ぶりのリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは対戦相手の福岡ダイエーホークス投手陣を打ち崩せず、また山崎の欠場が響いたのか1勝4敗で敗れ、敵将・王監督の胴上げを許した。
2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの巨人戦において、4-0でリードの最終回、エディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて優勝を決められてしまった。
2001年、4年振りのBクラスに終わる。この年から井端弘和がレギュラーに定着。星野監督が辞任し山田投手コーチが監督昇格。
2002年、谷繁元信が横浜からFA移籍。外野手にコンバートされた福留が、松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。チームは巨人戦9連敗が響き3位。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。
2003年まで山田監督が指揮を執る。この年の7月5日、東京ドームでの巨人戦において立浪和義が2000本安打達成。また、この年は一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスに入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。山田監督下の成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、山田自身の生真面目な性格から周囲との軋轢があったといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していたにも関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太、川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。また4番打者が流動的(主に立浪、アレックス)で固定出来ず、投手の好投を打線が見殺しにしてしまうケースが目立った。山田休養後は佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。
2005年、横浜よりタイロン・ウッズが加入。ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。球団初の開幕2試合連続サヨナラ勝ちなど交流戦前は好調。しかしこの年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には10ゲーム差の2位に終わった。
2006年3月、東京遠征時の宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルから近隣のホテルニューオータニへ変更することが決定した。ライバルの阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは東京ドームでの巨人戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、両チームの選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、これまでのヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に加え、交流戦でロッテとも戦うため千葉への遠征が多くなり、千葉・幕張のニューオータニと併用して契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあるからとされている。
2006年ペナントレースでは、投手陣と堅い守り、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で、6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速マジックナンバー(M40)を点灯させた。シーズン終盤には阪神タイガースの猛追に遭うものの一度も首位を明け渡すことなく、2006年10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての、いわゆる「完全優勝」であった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦したが、1勝4敗で敗退。52年ぶりの日本一はならなかった。
2007年のペナントレースは、常に上位をキープし、終盤には巨人、阪神との三つどもえの展開となったが、最後は巨人にかわされ、2位が決定、連覇はならなかった。落合監督が決意を込めて頭髪を丸刈りにして臨んだクライマックスシリーズでは、第1、第2ステージで5勝無敗で、セリーグとして初のクライマックスシリーズを制し、2年連続の日本シリーズ出場を一気に決めた。前年と同様、日本シリーズで北海道日本ハムファイターズと対戦し、4勝1敗で53年ぶりの日本一に輝いた。また、ナゴヤドームでの胴上げは初めてで、名古屋での胴上げも53年振りであった(前回の日本一の時は中日球場)。パ・リーグでは以前も2004年及び2005年の日本シリーズでレギュラーシーズン終了時2位チームが日本シリーズを制覇しているが、当時はプレーオフでリーグ優勝を決め順位を入れ替えるという制度だったため、中日が2007年に達成した「リーグ優勝せずに日本シリーズを制した」というのはプロ野球史上初のことである。日本代表として出場したアジアシリーズでは初戦、韓国代表のSKワイバーンズに日本代表として初となる敗北を喫するも、2位として決勝戦に進出、1位のSKワイバーンズに勝利し優勝、アジア王者となった。
打線の愛称は「恐竜打線」「強竜打線」など。かつてナゴヤ球場(改修前)を1軍ホームグラウンドにしていた時期は、狭い球場を生かした打力が売り物のチームだった。しかしナゴヤドームへと移転してからはチームが不振に陥り一転、投手を中心とした守備重視のチームへと切り替え、2004年以降は奮起も目立ち再度の定着を果たした。
東海地方唯一の球団ということもあり、地元には熱心なドラゴンズファンが多い。また、近隣の岐阜、豊橋、浜松などでは毎年地方試合が開催されている。
ニックネームの「ドラゴンズ」は親会社・中部日本新聞社(社名は当時)の杉山虎之助社長の干支「辰」にちなむ。現在の球団名「中日ドラゴンズ」の初出は1948年のことで、親会社よりも先に「中日」と名乗ったことになる。
かつては数年周期で大きな低迷の年が来て、その翌年にはたいていの場合優勝争いに絡むという特徴があったが、近年のセ・リーグの中では強豪チームとなっており、2004年以降は毎年優勝争いに絡んでいる。
日本シリーズには8回出場しているが、1954年に最初の日本一になってからその後は6連続で敗退してパ・リーグとの相性は悪く、日本一経験のないまま消滅した近鉄・松竹を除く11球団の中でもっとも長い間日本一から遠ざかっていた。2010年までに日本一にならないと、近鉄が持っている55年間(1950年〜2004年)連続日本一なしの記録を抜く可能性もあった。また、日本シリーズ6連続敗退は日本プロ野球の単独ワースト記録でもあった。しかし2007年に日本シリーズ制覇を達成して終止符を打つことになった。
選手別のヒッティングマーチを歌いながら、メガホンなどを叩くスタイルである。1980年代〜1990年代初頭までの選手別応援歌は他の楽曲から流用したものが多く見られる(例:立浪和義:ガラスの十代、落合博満:マグマ大使など)。1997年のナゴヤドーム移転後からは全国中日ドラゴンズ私設応援団連合が2つのチャンステーマと現監督落合博満の応援歌(上述したマグマ大使)以外は全ての選手応援歌を作曲・作詞して演奏している。1回の攻撃開始、7回の攻撃前、9回以降の攻撃前、得点時に「燃えよドラゴンズ!」を演奏する。他球団では得点時やラッキーセブンで曲が使い分けられたりするが、中日は得点時・勝利時等で全て燃えよドラゴンズを演奏するので、試合中に演奏される機会が非常に多い。応援歌が無い選手には「ガッツだドラゴンズ」(新人王資格あり)、「ドラゴンズマーチ」(新人王資格なし)が演奏される。過去は5年目までが「ガッツだドラゴンズ」、それ以降が「ドラゴンズマーチ」だったが、2004年〜2005年オフシーズンに中堅所のベテランから5、6年目の選手を大量に解雇・放出したこと、大学生・社会人ドラフトの分離によって高年齢ながら入団後まもない選手が増えることが予想されることにより基準が3年目までに変更された。2007年シーズンは「ドラゴンズマーチ」に一本化していたが、2008年シーズンは基準を新人王資格の有無に改め、「ガッツだドラゴンズ」の演奏が復活した。
通称「狙い撃ち」。2003年から青とピンクの手袋をはめて応援するスタイルを始めたが、あまり広まっていない。
通称「川又」。初めは巨人戦限定、関東以北限定だったものの、2006年8月下旬よりナゴヤドーム等全国の球場でも使用されている。
他にも特徴的な応援としては、小田幸平が打席に立った時に「O・D・A」コール、タイロン・ウッズが打席に入った時の入場曲(メガホンダンス付きである)の演奏、井上一樹の入場曲の演奏(こちらはオリジナル)、井端弘和のファンファーレ等がある(2005年まで在籍してた大西崇之もファンファーレがあった)。
2008年は応援団の中でも主導的役割を担っていた竜心会、白龍会が暴力団との関係を理由に全球場を出入り禁止になってしまっている。それに抗議するため他の応援団も応援を取りやめた。当初は何のリードもない応援だったが、笛と太鼓による応援は復活している。ただしトランペットによる応援はされないままである。
1936年 球団創設時のチームカラーは黒。左袖には金のシャチホコをモチーフにしたマークがつけられていた。帽子マークは現在の広島のものと同一。
1962年 濃人監督の出身球団・名古屋金鯱のチームカラーである紺と山吹を採用したユニフォームが登場。同時に帽子のマークを変更しCDマークが1968年途中まで使われたデザインとなる。
1963年〜1964年 水色に近い明るいブルーが登場。同時に帽子・アンダーシャツ・ストッキングもブルーに変更。※いわゆる「ドラゴンズ・ブルー」のユニフォームが初登場。理由は主催試合の中継権をもつ中部日本放送と東海テレビ放送が1964年から東海地区では初のカラー放送を開始するためそれに合わせたためだといわれている。
1996年より、胸番号、背番号・背ネームの書体が従来の高校野球型から、メジャーリーグタイプ(日本球界で初めて)のものに変更される。
2003年のみ、ビジター用の上着がグレーに戻り、青のラケットラインが入り、胸ロゴ、胸番号、背番号に白の縁取りがつく。
1998年のみ日曜日のナゴヤドームでの主催試合に限り、ノースリーブユニフォームが復活した(後述を参照)。
※中日出身者で名球会に加入している選手が現役時代につけていた背番号(41・1=高木守道、14・41=谷沢健一)はすべて永久欠番にはならず、在籍選手での会員である立浪和義の背番号(3)を永久欠番にする話もない。これは中日での永久欠番の条件が日本一に貢献した選手に限られるためと言われている。
※ただし、1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号(20)が永久欠番になっていないのは、一旦引退しながら1961年に大毎オリオンズで現役復帰したからだと推測される。このことから、中日での永久欠番には中日で現役生活を終えることも条件の1つに含まれると考えられる。
ドアラ - 名古屋市千種区の東山動物園のコアラにちなんだキャラクター。アクション担当。背番号は000、のち1994。2003年には、期間限定マスコットとして、ゴールデンドアラも登場した。珍プレー好プレーでイジられる姿がよく映った。なおマスコットの中では、バク転を披露するなど、リーダー的活躍。
ガブリ - 2006年に球団創設70周年を記念して設立された球団公式ファンクラブのマスコット。龍をモチーフにしている。宮崎駿がデザインを担当し、名前は公募でつけられた。
1950年発表。小島情作詞 サトウハチロー補作詞 古関裕而作編曲 伊藤久男歌唱。1949年(昭和24年)、中部日本新聞社が曲詩を一般公募。小島情の詩を第一等入選とし、中日ファンであったサトウの助力を受けて、巨人、東急、阪神の球団歌を手がけた古関により仕上げられた。翌1950年(昭和25年)3月21日、セントラルリーグ発足式で発表会が行なわれ、レコードが発売された。B面は、やはり名古屋の「名古屋タイムス社」一般公募による当選詩に藤浦洸の補作詞、古関作曲、「宝石の声をもつ」と讃えられた安西愛子の歌唱による「私のドラゴンズ」が収められていたが、中日、名古屋タイムス、両紙の関係が良好ではなかったため2曲とも歴史の闇に眠ったままであった。(アナログLP盤「懐かしのSP盤黄金時代」(日本コロムビア) 曲目解説文・改)しかし、『ドラゴンズの歌』は2006年発売のアルバム『昇竜魂〜ドラゴンズ70thメモリアルソングス〜』に収録された。
1974年にCBCラジオの企画で作られた応援歌。中日の代表的な応援歌であり、毎年選手の入れ換えとともに歌詞が変わる希有な応援歌でもあり、球団歌・応援歌の中でもっとも広く定着している。詳細は同項を参照。
中日ドラゴンズはナゴヤドームでの主催試合のほかに、下記のように毎年6試合ほどの地方遠征を行う。なお豊橋・浜松、岐阜・福井、富山・金沢と球場の場所が比較的近いのを考慮して日程が編成されている。特に富山・金沢の試合は北陸シリーズと呼ばれたりする事が多い。またバックネット裏の広告もナゴヤドームの場合のトヨタ自動車ではなく、球場ごとに異なる広告が掲示される(例:長良川-大垣共立銀行、豊橋-東海ラジオガッツナイター など)
なおオープン戦の場合は、キャンプ地の北谷球場をかわきりに、浜松市営球場・長良川球場を除く下記に記された以外の東海地方の各都市(岡崎・豊田・小牧)で行うことがあり、毎年多くの観客が来場したりしているほか、東海テレビ・CBCテレビで中継されている。
豊橋 - 豊橋市民球場(ここで開催されている球場の試合は東海ラジオ放送の主催する試合のため、テレビ中継は関連する東海テレビや三重テレビで放送されている。)
ファームの場合も毎年地方遠征を行うほか、ナゴヤドームで試合を行うことがあるが(ただし開始時刻が通常より早まる)、通常のナゴヤ球場の場合のようなスタイル(ドラゴンズ公式ファンクラブ会員なら、チケットを買わずに会員証を見せるだけで入場できるシステム。ただし人数制限あり)ではなく、1軍公式戦の時より安価に設定されているものの、チケットを買わなくてはならない。
なお、東海3県では唯一三重県ではここ数十年1軍公式戦を行っていない。オープン戦や2軍の試合では四日市市霞ヶ浦第1野球場や津市営球場を使うことはある。また中日新聞の販売エリアである長野県・滋賀県・和歌山県も現在のところ1・2軍とも試合が行われていない。
中日ドラゴンズ主催試合の放送権があるのはNHKと中京広域圏内で中日新聞社系列である民間放送のAMラジオ2局・テレビ4局のみで非中日新聞社系列であるメ?テレ・中京テレビ放送・岐阜テレビ・岐阜ラジオに放送権はなく、中日ドラゴンズ主催試合を中継できない(但し、系列がある阪神戦・横浜戦のビジターゲームは放送することもある。かつては、巨人戦以外の主要ビジターゲームを三重テレビ放送・岐阜放送が生中継したのち、メ〜テレでそれを編集・再構成し自社スタジオでカラ出張放送したビデオナイター・ゴーゴードラゴンズとして放送した事例もある)。
なお、同じ中日資本のテレビ愛知も以前はホームゲームの中継が出来なかったが、現在は年数試合(2007年は7試合)が放送されており、2007年には53年ぶりの日本一を達成した日本シリーズ第5戦(製作は親局のテレビ東京)を中継している。また、岐阜テレビでは過去にCBCと提携し、CBCで中継できなかったホームゲームを中継したことがあったが、現在はしていない。但し、2007年の日本シリーズ第5戦はテレビ愛知でなくテレビ東京製作のため独立UHF局にも中継協力要請があり、岐阜テレビでも中継が行われた。また、岐阜ラジオではスポーツニュースで中日ドラゴンズの結果を伝える際は「中日」とは言わず「ドラゴンズ」としてコメントするといわれている。
浜松、福井といった中京広域圏外での主催ゲームは、地元民放の中継がない。ただし浜松市近郊では、中京広域圏内の中日新聞社系列民放の豊橋局を受信することでゲーム視聴可。
中部日本放送(CBCドラゴンズナイター。デーゲーム中継等は『CBCドラゴンズスペシャル』として。ただしデーゲームの多い土日は競馬中継のため中断することがある)
東海ラジオ放送(東海ラジオ ガッツナイター。デーゲーム・月曜ナイターは『東海ラジオ ガッツナイタースペシャル』として。なお東京ヤクルトスワローズの主催試合を中継する際は、東海地方の民放ラジオ局で唯一の、独占生中継で放送する(放送権の関係)が、一方で読売ジャイアンツの主催試合を、CBCとの兼ね合いからか、自社制作できていない。)
三重テレビ放送(三重テレビナイター。東海テレビが年間を通じて諸事情の関係で中継できないホームゲームを、東海テレビの製作協力により放送されている(東海テレビがCS放送担当日の場合、同時生中継されることもある)。なおビジターゲームも他のUHFテレビ放送局が放送している試合をネットする形で放送している。)
中部日本放送(ザ・プロ野球、ローカル中継のタイトルは『ザ・プロ野球 燃えよドラゴンズ!』。なおビジターゲームもデーゲームを中心に不定期で中継する。)
テレビ愛知(侍スタジアム)(読売ジャイアンツ戦の放映は2006年まではなかったが、2007年は1試合の中継を行う。ホームゲームも放送するが、東海地方のテレビ局の中では、ビジターゲームでも現地に自社スタッフを派遣することが多い。)
東海地方の各ケーブルテレビ(2007年よりウエスタン・リーグのみ、「東海ケーブルチャンネル」にて不定期で放送。制作:スターキャット・ケーブルネットワーク)
1949年に杉下茂が背番号20番を背負って以来、ドラゴンズを代表する投手や、期待される投手に背番号20番が与えられてきた。このことから背番号20は「ドラゴンズのエースナンバー」と呼ばれている。杉下以降に20番を付けた投手は、以下のとおりである。
ただし、落合監督は「エースナンバーは18」が持論であり、そのため、希望獲得枠ではなくドラフト2巡目入団の中田賢一に「空いていた背番号」として20を与えている。(ちなみに、1巡目の樋口龍美に21、5巡目の鈴木義広に23を与えた)。この時『20番はエースナンバーじゃないんですか?』という記者の質問に、落合監督は『20がエースナンバーだって言うんなら、杉下さんで永久欠番にすりゃよかったんだ(笑)』と答えた。
1942年5月24日に行われた大洋対名古屋5回戦(後楽園球場)の試合は、大洋の先発投手・野口二郎、名古屋の先発は西沢道夫で始まった。9回を終えて4対4の同点で延長へ。当時は戦時下による突貫主義が野球にも影響を与えており、引き分けの条件は日没のみ。9回以降は両軍とも0点が続き、延長28回を終わった時点で日没コールドが宣言され試合は終了した。先発両投手が最後まで投げきり、野口が投球数344球、西沢は311球で完投した。試合時間は3時間47分。プロ野球の延長記録では世界最長となった。
中日ドラゴンズは1948年に自前の球場ナゴヤ球場(※1948年 - 1975年までは中日スタヂアム)を完成させナゴヤドームに本拠地を移す前年の1996年まで本拠地として使用していたが本拠地球場がらみの災難をナゴヤ球場時代に2度経験している。1つ目は球場を火事で焼失。2つ目は球場の運営会社倒産の影響で本拠地消失の危機に陥ったことである。
前者は1951年の出来事である。初代の中日スタヂアムは木造作りだったが故にタバコの不始末によるボヤ騒ぎがしょっちゅうでセントラル・リーグ発足以降は連盟から改善命令を受けていた。その年の8月の対巨人戦の3回表頃にバックネット裏から出火、あっという間に燃え広がり全焼してしまった。おかげでチームは残りの主催試合を静岡県や神奈川県で行う羽目に。しかしこの火災直後に鉄筋コンクリート作りで再建が開始され、翌1952年には完成して支障を来たさずに済んでいる。(なお、1959年に発生した伊勢湾台風の時も、球場が水没したため一部の主催試合の会場を変更した事例がある)
後者は1973年 - 1974年の出来事。中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社(株)中日スタヂアムが運営していたが1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見されたことにより倒産にいたっていたことが発覚(※ 倒産後同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件が発生したがこれは中日スタヂアム事件を参照されたい)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元名古屋市の財界の雄トヨタ自動車(当時はトヨタ自動車工業)や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資して新たな運営会社、(株)ナゴヤ球場が設立され中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営していくのである。
戦前・並びに戦後初期は変則ダブルヘッダー(異なる組み合わせの試合を同じ会場で施行する)のケースが頻繁に行われたが、1952年にプロ野球地域保護権(フランチャイズ=ホームタウン)が制定されてからも、1960年代初めまで関東地方に籍を置くチームの多くは後楽園球場を使用していたため、変則ダブルは当たり前だった。
その後変則ダブルは皆無に等しくなるが、1971年10月11日に川崎球場で行われたダブルヘッダーは中日がビジター(アウェー)で、ホームチームが入れ替わるというものだった。というのも日本シリーズ・巨人vs阪急の開催が10月12日から行われるのに併せて、それまでにペナントレースを全て終わらせたい意向があったためで、この日は第1試合をヤクルトとの試合、ついで第2試合は川崎を本来のホームタウンとする大洋との対戦を開催した。
ヤクルトは当時明治神宮野球場が大学野球(東京六大学選手権・東都大学選手権1部リーグ)とデーゲーム日程が重なる場合は大学野球を優先したため、やむをえない事情として川崎球場や横浜平和球場等を借りて試合をしていたため、こういう変則日程が生じた。
1976年に後楽園球場に人工芝が敷設されたが、中日はこの後楽園を大の苦手としていた。初戦の5月4日に巨人に3-10で敗れると、そのまま7連敗。6月27日に9-9で引き分けて新生後楽園での初勝利は近いかと思われたが、その後5連敗し、結局この年は後楽園で全く勝てぬまま終わってしまった。
1987年8月9日、ナゴヤ球場で開かれた巨人との対戦において、この年入団したばかりの近藤真一投手が初登板した。近藤は地元・愛知県の享栄高校のエース投手として活躍し、1986年のドラフト1位で入団。2軍での調整が続いたがこの日1軍公式戦に初登板。すると初完封はおろか、日本球界で史上初となる初登板ノーヒットノーランの偉業を達成した。
野球を扱った映画は数多くあるが、中日ドラゴンズを扱った映画として、1992年に公開されたアメリカの作品『ミスター・ベースボール』(Mr.Baseball、トム・セレック主演、フレッド・スケピシ監督)がある。ヤンキースから中日にトレードされたメジャーリーガーの活躍を描いた作品で、中日球団および地元テレビ局の全面協力の元、野球のシーンでは1992年当時の全国各地の本拠地球場で撮影、ナゴヤ球場での撮影ではのべ10万人以上もの名古屋市民がエキストラとして参加した(そのときのキャッチコピーは「映画に出てハリウッドに行こまい」)。 当初はオリックスブレーブス(当時)、西宮球場を舞台に実際に撮影が進められていたが、途中でブレーブスがブルーウェーブへの改称と本拠地が神戸へ移転したこともあって、中日に舞台が変更され、再度撮影された。
日本では高倉健が内山監督役で出演したことで話題となった(ちなみにこの時に野球をあまり知らない高倉の相談役になったのが、福岡・東筑高校時代の後輩で当時近鉄監督を務めていた仰木彬である)。またチームメイト役では『メジャーリーグ』シリーズや『24』シリーズに出演しているデニス・ヘイスバートが、さらにはレオン・リー(元ロッテ)やアニマル・レスリー(元阪急)など日本でも活躍した往年のメジャーリーガーもゲスト出演している。
アメリカのフロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールドの施設、ディズニー-MGMスタジオのアトラクション、「マジック・オブ・ディズニー・アニメーション」のツアーで「ドラゴン」の付く言葉として「チューニチ・ドラゴンズ」が映像と共に出てくる。
中日ドラゴンズは、1997年から子供向けサイトとしてキッズドラゴンズというサイトを運営している。マスコットのペーパークラフトや、野球教室、さまざまなゲームがある。このようなサービスを行ったのは12球団中、中日ドラゴンズが初。ほかにこのような試みをしている球団は読売ジャイアンツのキッズジャイアンツがある。
第二次星野監督時代の1998年、白地に星野の母校明治大学のイメージカラーである紫の縦縞でノースリーブのユニフォームを日曜日のナゴヤドーム限定で使用したが、安っぽいとの評価や着用した試合の勝率が余りに悪いことなどからわずか1年で廃止された。
ちなみに中日は1968年にもノースリーブのユニフォームを使用したことがある(ホーム用は白地で左胸に赤いDの飾り文字、ビジター用はグレー地に赤でChunichi)。この年最下位に沈んだこともあり、こちらもわずか1年で廃止されている。
2005年から各球団がより透明性のある球団経営の定着を図るために、有料入場人員を実数で発表しているが、中日だけは実数に近い数値で発表するとしながらも、100人以下を切り捨てて発表している。これは中日主催ゲームのチケットが他球団の主催ゲームのように半券をもぎるスタイルではなく、チケットに入場を証明するスタンプを押す方式を採用しており、正確な人数が把握できないためであった。2006年オープン戦からは他球団と同様1人単位までの実数発表に切り替えられている。
2006年2月17日発足。今まで高校生以下を対象としたジュニアファンクラブは存在していたものの、高校生以上を対象としたファンクラブが存在していなかったため、球団設立70周年を機に中日新聞社と共同で設立。運営は中日ドラゴンズ公式ファンクラブ事務局が行っている。初年度の2006年の会員申し込み受付では、先着25000人限定でナゴヤドームのチケットが特典でつくと公表したところ、数日でチケット特典が終了したほか、会員数も最終的に8万8061人と急激に伸びた。
ナゴヤ球場でのウエスタン・リーグ(2軍リーグ)観戦無料(2006年〜。但し会員証の顔写真が貼ってない場合は入場できないほか、観客が規定の人数を超えると入場を断られる場合がある)
中日ドラゴンズ・広報担当の、石黒哲男が編集・運営しているブログのこと。2006年3月下旬よりスタート。記念すべき第1回目は、2006年3月22日更新の『今日から始めます。よろしくお願いします。』内容は小牧市民球場で行われたオープン戦の盛り上げ役として参加したチアドラゴンズに関しての話題だった。
掲載される内容として、シーズン中の場合は、主に試合の裏側などのリポート・選手の様子など シーズンオフは、主に球団の様々な情報が掲載されることが多い。なおシーズン中は、ドラゴンズのマスコット(主にドアラ)の写真や情報が掲載されることが多い。
2008年3月下旬ごろに大幅リニューアルされた球団サイトのファンエンタメページのブログの紹介には、球団広報の名物ブログと書かれている。
2008年2月1日からはドラゴンズの2軍情報を伝える球団公式ブログがオープンしたが、こちらの編集・運営は本家と異なる人物が担当している模様。
2006年10月10日の優勝決定試合(対巨人戦・東京ドーム)では地上波テレビでの全国中継がないという事態が生じ、日本テレビとその系列局中京テレビに苦情の電話が殺到した。ただしNHKが急遽予定を変更してNHK-BS1での中継をしたため、日テレG+に加入をしていないファンがみな当該試合を視聴できなかったわけではないが、放送が決まったのは当日のことであり、この日は新聞休刊日で朝刊が休刊だったため、事前にこれを知ることができなかったという人もいた。
また、地上波ラジオではNHKラジオ第1放送が全国中継を、在京ラジオ局ではTBSラジオ、ニッポン放送が中継を放送した。なお地元東海地方では、CBCラジオが自社制作した。なお同じ東海地方の東海ラジオは放送権の都合上、ニッポン放送の中継をネットする形となった。
上述のように、地元の名古屋ですら地上波中継ができなかった理由として、日本テレビ系列局(NNS)の特殊な著作権関係が多分に影響していた。
日本テレビ系列では、NNSでの取り決めにより主催球団の地元の放送局が試合の放映権と著作権を全て握っており、地元局の意向なしに他地方のNNS加盟局への試合中継は許されないことになっている。このため、名古屋の中京テレビで巨人主催試合を流すためには東京・日本テレビでの地上波中継が必須となる。しかし、近年の巨人戦視聴率の低迷に加え、その日は人気番組「踊る!さんま御殿!!」の2時間スペシャルが放送予定であったため、中日の優勝試合では中京以外の地区で「さんま御殿」を視聴率で上回る期待ができなかったために、スポンサーや中京テレビ以外のNNS加盟局からの放送許可が下りず、名古屋でも地上波中継できない結果となってしまった。
一方、他系列(CBC・TBS系、東海テレビ・フジテレビ系、メ?テレ・テレビ朝日系、テレビ愛知・テレビ東京系)の場合はネットワーク組織でプロ野球の放映権・著作権を共同保有しているため、主催球団の地元局の意向なしに他地方の同じ系列局が自社の実況・解説者を使ってその試合を中継することができる(一例を挙げると、東京ヤクルトスワローズ主催のヤクルト対中日戦を地元局のフジテレビが地上波中継していないにもかかわらず、東海テレビが自社のアナウンサーと解説者を使って地上波中継できるのはこのためである)。このため、もし他系列が優勝当日の試合の放映権を保有していたら、名古屋だけは確実に地上波中継ができたため、実に悔やまれる結果となってしまった。
また、この件に関しては巨人の親会社である読売新聞の圧力もあったといわれている(中日・巨人は互いに親会社が新聞社でライバル意識が非常に強く、中日新聞・読売新聞の両者が互いのチームの優勝を特に屈辱的に受けとめているため)。
2007年度はシーズン2位とリーグ優勝とはならなかったものの、このシーズンよりセントラル・リーグにも導入されたクライマックスシリーズでは、ファーストステージ・セカンドステージを全勝で勝ち上がり、球団史上初の2年連続での日本シリーズ出場を果たし、前年と同じく日本ハムと対戦することになった。
3勝1敗で王手をかけたシリーズ第5戦、先発した山井大介は8回まで全打者を完全に抑えていた。そのため、もし9回も三者凡退に抑えれば、ノーヒットノーランを含めて日本シリーズ史上初の完全試合を、日本一を決定する試合で達成することになり、結果が注目された。しかし落合監督は、山井が試合中盤でマメを潰していたことなどを知り、9回を抑えの切り札岩瀬仁紀に任せたため、個人投手による完全試合はならなかった。この采配に関しては落合監督の采配への賛否に詳しい。
その後、未だ完全試合継続中というプレッシャーのかかる中、岩瀬は9回を三者凡退に抑え、日本プロ野球はもとよりメジャーリーグでも例のない継投による完全試合を記録し、53年ぶりとなる念願の日本シリーズ制覇を成し遂げた。
中日映画社・中日劇場・中日ハウジングセンター・ナゴヤハウジングセンター・中日ビル・社団法人 名古屋タイムズ社(レジャーニューズ)・サンデーフォーク・東京新聞事業協同組合
読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス
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